白鵬 翔(はくほう しょう、男性、1985年3月11日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で宮城野部屋所属の現役大相撲力士、第69代横綱。本名は М?нхбатын Даваажаргал(Mönkhbatyn Davaajargal;ムンフバト・ダヴァジャルガル、Davaajargalは月曜日の幸福という意味。生まれた1985年3月11日は月曜日である。)。得意手は右四つ、寄り、上手投げ。身長192cm、体重154kg(日本相撲協会公式発表による)。好物は焼肉、嫌いなものはあんパン(餡が苦手)、趣味は読書、チェス、テレビゲーム。愛称は「ダヴァ」、血液型はA型。
父ジグジドゥ・ムンフバトはブフ(モンゴル相撲)で、5年連続6度の優勝をした元アヴァルガ(モンゴル相撲の横綱に相当)。メキシコ五輪のレスリング重量級銀メダリスト(モンゴル初の五輪メダリスト)となったモンゴル国の国民的英雄。母は元外科医。義父は実業家で、元朝青龍全国後援会長の和田友良。来日前にブフは10 - 12歳の時に遊びでやっていた程度で経験らしい経験はなく、バスケットボールに熱心に取り組んでいた。
大相撲で活躍していた同じモンゴル出身の旭鷲山をつてに、2000年10月25日に6人のモンゴル人と共に来日。大阪の摂津倉庫で相撲を習っていた(この会社からは以前、前頭にも上がった大飛翔を輩出)。共に来日した猛虎浪(立浪部屋)、千昇(式秀部屋)、大河(式秀部屋)らの入門が決まるなか、小柄だった白鵬を受け入れてくれる部屋は最後までなかった。少年白鵬は当時日本語が分からなかった為か英語で"I don't want go back..."と言って泣いたという。その失意の帰国前日12月24日、彼を哀れんだ旭鷲山が師匠である大島(元大関・旭國)と会食中に相談し、大島親方は友人であった当時の宮城野(元幕内・竹葉山、現・熊ヶ谷)に受け入れを申し入れた。当時の宮城野部屋は文字通り弱小部屋だった為に厳しいしきたりも少なく、育ちの良い白鵬には伸び伸びとやれる環境で結果的に良かったのだとされる。こうした経緯から現在の師匠は宮城野(元十両・金親)だが、もともと熊ヶ谷親方の内弟子であり、故に専ら熊ヶ谷親方の指導を受けている。
こうして角界入りとなるものの、部屋の先輩力士に「若くてすらっとしている子」という条件で連れてこさせた少年を見た宮城野は、父親の実績を知る由もなく、その小柄な体から大きな期待はしていなかったという。しかし一方で、大きな手足と腰、柔らかい筋肉などから、もしかしたら化けるかもしれないと思い、入門してからの2カ月間は稽古をさせず、毎日吐く程に食べさせ、牛乳を飲ませた。
四股名は、横綱大鵬と柏戸に因んで柏鵬(はくほう)とする案があったが、色白だったことから白鵬と付けられた(幕内・千代白鵬と四股名が比較されるが、命名は千代白鵬が先)。2001年3月場所に初土俵を踏むが、番付に名前が載った翌5月場所は身体の小ささもあり3勝4敗の成績で、後の横綱としては異例の序ノ口での負け越しを経験する。しかし、入門当時身長175cm、体重68kgだった体は、食文化の違いを苦にせず大食漢だったことと熱心な稽古によって大きく成長し続けた。急激な肉体の成長と才能の開花に歩を合わせるかのように、番付を駆け上がっていく、そのスピード出世から一部では「恐ろしい子」と評された(特に、稽古を付けていた当時の関取光法=現安治川親方=は、「あの白鵬って子、一晩眠るたびに強くなっている。2?3年後には化粧まわしや白い稽古まわし(共に関取の象徴)を身につける身分になりますよ!」と驚いていた)。
十両 [編集]
2003年11月場所では、東幕下9枚目で6勝1敗の好成績を上げ、関取の定員増もあり翌2004年1月場所に新十両に昇進し、翌場所、十両2場所目で追風海との優勝決定戦を制し優勝。十両はわずか2場所で通過。
新入幕 [編集]
2004年5月場所で新入幕となる。19歳1ヶ月での新入幕は貴花田(後の横綱・貴乃花)、北の湖、花田(後の大関・貴ノ花)に次ぐ当時史上4位の若さであった。その場所、千秋楽まで単独で優勝争いの先頭に立っていた北勝力を立合いの変化で破り、星1つの差で追っていた同じモンゴル出身の横綱朝青龍の「援護射撃」を果たし、自らも12勝3敗の好成績で貴花田の18歳7ヶ月に次ぐ19歳2ヶ月の若さで初三賞(敢闘賞)を受賞した。新入幕での12勝は、15日制になってから歴代3位タイ。入幕を果たした際には「親方、一番強い人を倒したときの懸賞を持ってきます。待っていてください」と熊ケ谷親方と約束した。2004年11月場所11日目、白鵬は朝青龍を送り出しで破って初金星を獲得。その夜、この一番に掛かった懸賞を持って熊ケ谷親方の前にやってくると、「ここまで来られたのも親方のおかげです。受け取ってください」と差し出した。この懸賞は熊ケ谷親方の自宅の居間の一番見えるところに飾ってあるという。
幕内 [編集]
入幕1年目にして横綱最有力候補と目され、2005年3月場所には関脇に昇進し、直近の2場所で12勝・11勝を上げていた事から大関獲りの場所と目された。達成すれば貴乃花を上回る史上最年少での昇進となったものの序盤からまさかの3連敗で、終盤追い上げて8勝7敗と勝ち越しはしたものの、大関昇進を逃がした。
同年7月場所では7日目まで6勝1敗と優勝争いをしていたが、中日の普天王戦で左足関節靭帯損傷及び内反捻挫の怪我を負い、初土俵以来初めて休場し翌9月場所では、平幕落ちした。翌11月場所は、2場所ぶりに小結に復帰し9勝6敗。
大関獲り [編集]
関脇に復帰した2006年1月場所では、12日目に朝青龍を小手投げで破る。千秋楽では大関昇進で先を越された琴欧州に寄り倒しで圧勝し、栃東との優勝決定戦を待ったが、栃東が朝青龍に勝ち優勝決定戦にはならなかった。この時初めて千秋楽まで優勝に絡んだ。
翌3月場所は、自身2度目の大関獲りの場所であった。11日目に全勝の横綱朝青龍との相星決戦で、左四つに組み合った後、左手で朝青龍の左ももを払いながらの上手出し投げで完勝し、大関昇進の基準といわれる33勝目をあげた。千秋楽では魁皇に敗れたが、優勝を争っていた朝青龍も栃東に敗れたため優勝決定戦で再び朝青龍と対戦。朝青龍に得意の右四つからの下手投げで敗れ優勝は逃したが、技能賞と殊勲賞を獲得するなど高く評価された。この一番はモンゴル国内において、瞬間視聴率は驚異の93パーセントを記録したとされる。
場所終了後の3月29日、日本相撲協会は大阪市内で番付編成会議を開き、白鵬の大関昇進を満場一致で決め、理事会で承認された。正使として友綱理事(元関脇・魁輝)、副使に春日山審判委員(元幕内・春日富士)が、大阪府堺市の西本願寺堺別院に派遣された。師匠の宮城野(元十両・金親)夫妻とともに紋付き袴姿で出迎え、「謹んでお受け致します。大関の地位を汚さぬように、全身全霊をかけて努力します。本日は誠にありがとうございます。」と昇進口上を述べた。
大関 [編集]
2006年5月場所の新大関で14勝1敗、本割で唯一負けた雅山との優勝決定戦で、取組前にかいた汗により雅山の突きが滑るという幸運にも恵まれて勝ち、新大関の勝ち星記録更新という快挙も成し遂げて初優勝を果たした。21歳4ヶ月での初優勝は貴乃花、大鵬、北の湖に次ぐ歴代4位の若さだった。12日目の帰りの車の中で「君が代」を教わり練習し、初優勝を果たした千秋楽では君が代を歌った。優勝パレードの旗手は、兄弟子の光法が務めた。
綱獲り [編集]
初の綱獲りとなった2006年7月場所初日、朝赤龍、9日目に雅山に敗れたが、その後順調に勝ち星を積み重ね、千秋楽ではここまで全勝の朝青龍に気迫の寄り倒しで土をつけ13勝2敗で場所を終えた。
横綱昇進が有力視されたが、日本相撲協会の放駒審判部長(元大関魁傑)は、朝青龍の独走を許したという理由で、理事会の招集も横綱審議委員会への諮問も行わず、横綱推挙は見送られた。千秋楽後の朝青龍の優勝インタビューの際、NHKのアナウンサーが白鵬の横綱推挙が見送られたことを朝青龍に伝えると、会場は失望ともブーイングともつかぬ大きなため息に包まれた。番付上、東横綱・朝青龍と東大関・白鵬との対戦が組まれるのは千秋楽であるため、そこまで優勝争いがもつれなかったという意味で「独走を許した」という表現となった(14日目の時点では横綱が14勝0敗で優勝決定、白鵬が12勝2敗)。横綱昇進を見送られた白鵬は、モンゴルの温泉で疲れを取るため帰国した。
翌9月場所で再び綱獲りを目指したものの、初日に稀勢の里に敗れ、その際右膝を負傷。12日目でようやく勝ち越すが、その後千秋楽まで連敗。8勝7敗で横綱への挑戦は白紙に戻った。
翌11月場所は、場所直前の11月1日稽古場のある公園内の階段でトレーニング中つまずき、左足親指を怪我、翌日、左母趾基節骨遠位端骨折と診断され福岡市内の病院で手術(ボルトを入れ4針縫う)し入院。9日に抜糸し退院したが、同日宮城野親方が会見を開き、怪我の回復を優先させる事から休場を発表、初の全休となった。次の2007年1月場所は、自身初の角番であったが、12日目で8勝目を挙げ、角番を脱した。
3月場所は千秋楽の優勝決定戦で立合いの変化で朝青龍を上手投げで下し優勝。変化ということで内容が十分でないとの意見もあったが、翌5月場所は全勝優勝で満場一致の横綱推薦となり、横綱に昇進した。横綱土俵入りは熊ヶ谷親方の推薦もあり、熊ヶ谷の入門時の師匠である元横綱・吉葉山と同じ不知火型を選択。土俵入りの指導は元横綱・旭富士の安治川(当時。現在・伊勢ヶ濱)親方だった。
横綱 [編集]
2007年 [編集]
7月場所は初の横綱としての土俵。16連勝でスタートしたが、10日目に琴光喜に敗れ25で連勝はストップ。12日目の魁皇戦では、土俵際で魁皇の突き落としが決まったように見えたが行司・木村庄之助の軍配は白鵬に上がった。物言いが付き差し違えとなると思われたが、放駒審判部長は取り直しと説明した。
この日の大相撲中継の解説であった北の富士勝昭、実況アナウンサーの刈屋富士雄も、魁皇の勝ちであるように見えたと発言している。この相撲で魁皇は負傷し、取り直しの一番は全く相撲にならず白鵬の勝利。翌日から魁皇は休場した。白鵬自身調子が狂ってしまったのか、翌13日目の琴欧洲と14日目の千代大海に敗れ、横綱として初の連敗を喫し、この時点で3敗に後退して3連覇の可能性が断たれた。
そして千秋楽には実に4年10か月振りとなる両横綱の対戦(2002年9月場所の武蔵丸 - 貴乃花以来)で朝青龍に敗れ、3連敗を喫して11勝4敗に終わった。
翌9月場所はもう1人の横綱朝青龍が自身の不祥事の為に出場停止処分となり、事実上1人横綱となった。初日に安馬(現:日馬富士)に敗れ、中日までは安美錦を追う形となった。さらに11日目には豊ノ島に敗れ、新入幕の豪栄道に優勝争いのトップを明け渡してしまったものの、横綱としての責任を果たし、13勝2敗で横綱初優勝となる通算4度目の優勝を果たした。
11月場所では朝青龍の休場(出場停止)もあり、自身初の東横綱の座に就いたがこの場所も初日琴奨菊に敗れた。大関時代からなぜか初日に分が悪い。14日目に11勝2敗の相星対決で降した大関千代大海が右肘負傷により千秋楽を休場するアクシデントが発生した為、取組を待たずに5回目の優勝が決まった。その千秋楽結びの一番の琴光喜戦では下手投げで裏返しにされて敗れ、祝勝気分に自ら水を差した格好になった。なお、日本相撲協会によれば千秋楽に優勝を争う一方の力士が休場することによって幕内最高優勝が決まったのは、1927年(昭和2年)10月の不戦勝制度適用以来初めてのことだった。
2008年1月場所、初日から好調で優勝争いのトップを走った。そして西横綱朝青龍も負けじと白鵬に並走し、遂に2002年9月場所の武蔵丸 - 貴乃花以来となる東西横綱同士の千秋楽相星決戦となった。注目の一番は白鵬が朝青龍を左上手投げで下し、3場所連続6度目の優勝を決め、幸先の良い一年のスタートとなった。
3月場所では4日目の平幕安美錦戦で早くも土がつき、12日目にも千代大海に敗れ、それまで全勝の朝青龍に引き離されていた。しかし朝青龍が12日目と13日目で土がつき、14日目の時点で両横綱共に2敗で並んだため、1995年3月 - 5月場所の貴乃花 - 曙戦以来、約13年ぶりの2場所連続の千秋楽横綱相星決戦となった。結果は朝青龍に小手投げで敗れ、4連覇を逃した。
5月場所は9日目まで全勝だったが10日目の安馬(現:日馬富士)戦で敗れた際に左足首を捻挫、その影響で優勝争いから脱落する。千秋楽結びの一番で、朝青龍に引き落とされて両手をついて敗れた後、横から駄目押しされたためか、白鵬が朝青龍に肩をぶつけ両者が睨み合うという事件を起こした。その翌日の5月26日、北の湖理事長は師匠である宮城野親方を国技館に呼び厳重注意、5月27日には当事者の白鵬と朝青龍に対してもそれぞれ口頭で厳重注意の処分となった。
7月場所、6日目から朝青龍の途中休場により1人横綱となったが、13日目に魁皇を下し7回目の優勝、千秋楽には琴欧洲も降し横綱昇進後初となる通算2度目の全勝を果たした。これで各場所すべて優勝(全6場所制覇)を成し遂げたことになる(歴代10人目)。ちなみに歴代の不知火型の横綱で年6場所制になってからは、玉の海の優勝6回を上回り最多となり、昭和以降では年6場所制以前の羽黒山と並んだ。優勝制度が始まって以降の最多は太刀山の9回。
9月場所、3日目の東前頭筆頭の琴奨菊との取り組みで左の上手投げで勝ったが、立合い直後の「琴奨菊の手つき不十分」として放駒審判長(元大関魁傑)から「待った」がかかっていた(これは行司も気づかなかった)。やり直しの一番も寄り倒しで制し、“1日2勝”することとなる。
5日目に稀勢の里(0勝4敗)に横綱になって初めて敗れ、19で連勝はストップし金星を与える。
14日目に、自分の取組前に安馬(現:日馬富士)と琴光喜が敗れ、結びの一番で琴欧洲と対戦、上手投げで相手を屠って8回目の優勝を決めた。またこの日同時に、年間勝利数が2位の安馬と16勝差となり、11月場所を残して2年連続2回目の年間最多勝利を決めた。千秋楽で琴光喜を破り、14勝1敗で9月場所を終えた。
11月場所、初日に安美錦に敗れるスタート。この場所の序盤は相撲内容が良くなく、苦しみながら勝つという状況が続いて、12日目に大関昇進を目指す安馬(現:日馬富士)に敗れた。優勝争いは千秋楽の本割終了時点に於いて13勝2敗で安馬と並び、優勝決定戦となった。決定戦では両者白熱した攻防の末、白鵬が強引な上手投げで安馬を下し、3場所連続9回目の優勝賜杯を獲得した。この優勝で、歴代の不知火型の横綱では史上最多の優勝回数となった。
2009年 [編集]
1月場所は初日から9連勝で4場所ぶりの土俵となった朝青龍と並んでいたが10日目に日馬富士に敗れて朝青龍にリードを許した。その後も全勝の朝青龍との星1つの差は変わらず、優勝争いはこの2者に絞られていった。千秋楽の本割では朝青龍の立ち合いミスを逃さず寄り倒し、優勝決定戦に持ち込んだが、優勝決定戦で朝青龍に敗れて4連覇を逃した。
3月場所も朝青龍と熾烈な優勝争いを演じていた。10日目に朝青龍が日馬富士に敗れた後もペースを崩すことなく単独トップを維持し、14日目に10回目の優勝を決めた。これにより、不知火型の横綱では最多の優勝回数を更新した。翌日の千秋楽も朝青龍を破って自身3度目の全勝で締めくくった。
略歴 [編集]
2001年3月場所 - 初土俵(一番出世)
2004年1月場所 - 新十両
2004年5月場所 - 新入幕
2005年1月場所 - 新小結
2005年3月場所 - 新関脇
2006年5月場所 - 新大関
2007年7月場所 - 新横綱
取り口 [編集]
右四つ左上手で万全である。立合い右でカチあげて素早く右を差し込む。張り差しにいくことも多い。体質が柔軟で、腰が重く、摺り足も良くてまさに磐石。相手の好きなように攻めさせておきながら最後は自分の型で勝ついわゆる「横綱相撲」が出来る。しかし実際には相手に応じて両差しの攻めや突き押しに転じることが多い。投げも強く、特に膝を送りながら投げる上手投げが強烈で、相手は見事にひっくり返る。廻しを切る技術も秀逸である。
しかし幕内に上がってきた頃の取り口は今とは比べようも無いほどひどかった。素質のみを武器としている感があり、前に攻めるよりも投げや引き技で安易に勝負を決めてしまう傾向が強く、また立合いの呼吸もどちらかといえば汚いものだったので、好角家をしばしば嘆かせていた。そのような中でも立合いから左前褌を狙って踏み込む相撲には光るものがあり、しだいにその形が身についていった。ただ大関時代に研究されて立合いに左前褌が取れなくなり、綱取りを逃したこともあって、両差しなど他の型の相撲も見せるようになった。
相手に応じた自由自在の相撲が固まっていくにつれて攻めの意識に欠けるような相撲は減っていったが、時より顔を出すことがあり、横綱となった今でも消えたとはいえない。無理をしてでも寄り切って勝つようなことはあえてせず、すぐに投げにいったり、あるいはとったりや叩きで取り組みを優位に進める嫌いがある。白鵬自身はそのような時に「流れで勝った」という類のコメントをしばしば残しているが、そのような勝ち方が横綱として必ずしも相応しいものとはいえない、という意見もある。
廻しを取られて横に回られる動きに対応し切れないことがあり、日馬富士や安美錦に苦労することが多い。その他にも立ち合い変化についていけずに相手に十分の体勢を許してしまうこともある。
主な成績 [編集]
2009年3月場所終了現在
通算成績:432勝139敗21休(49場所、勝率 0.757)
幕内成績:338勝91敗21休(30場所、勝率 0.788)
横綱成績:144勝21敗(11場所、勝率 0.873)
連勝記録:25(2007年3月場所千秋楽 - 2007年7月場所9日目)
年間最多勝:2007年(74勝16敗)、2008年(79勝11敗)
三役在位:7場所(関脇5場所、小結2場所)
大関在位:7場所
各段優勝 [編集]
幕内最高優勝:10回(2006年5月場所、2007年3月場所、2007年5月場所=全勝、2007年9月場所、2007年11月場所、2008年1月場所、2008年7月場所=全勝、2008年9月場所、2008年11月場所、2009年3月場所=全勝)
十両優勝:1回(2004年3月場所)
トラスト クター アップ オバタ ダナン たはら トランス うちまた ノンワイヤ エレジー リアリス ミシンス オポチ カップ シュート キナノ ブレイ ぼしん ヤマボウ ロジウム ログレコド サング トグル ミニデ とらべる この日 スキュラ ダウンヒル モーダル フリッカー レセルピン キジムシ デスクト ディナー ロライト ビーチ ティラナ 長久パート チーク ストック 秋の夜 ユキヤナ トラン 夕凪 バーチ タイイン イザー サマル バッテ ピトン
三賞・金星 [編集]
殊勲賞:3回(2004年11月場所、2006年1月場所、2006年3月場所)
敢闘賞:1回(2004年5月場所)
技能賞:2回(2005年1月場所、2006年3月場所)
金星:1個(朝青龍)
人物・エピソード [編集]
あまりにもよく寝るため、部屋の兄弟子が「死んでいるのではないか」と心配したことがある。今でも一日16時間以上の睡眠は欠かさない。場所中以外は朝稽古の後、6時間も昼寝をする。夜も多い時には10時間寝る。初の綱獲り挑戦の2006年7月場所後は、16時間眠り続けた。
父のムンフバトによるとモンゴルの新聞では毎場所の様に、結婚の話題が出て既に20人近くと結婚した事になっている。
小さい頃、兄とタルバガンを獲りに行った時に、兄が獲物を銃で撃つ事に夢中で遠くに行ってしまい、羊の群れと一緒に草原に置き去りにされた。そこで羊を狙う狼とハゲワシに遭遇したが奇跡的に助かった。
幕下時代に朝帰りをし、宮城野親方(現熊ヶ谷親方)が激怒し破門寸前。土下座し謝り許しを得る。
入幕前、幕内で3場所33勝以上なら大関になれると勘違いしており、相撲記者に「三役で33勝」と教わったことがある。
大相撲中継で藤井康生アナウンサーが誤って熊ヶ谷親方の事を「白鵬の師匠の宮城野親方」と言い間違えた事がある。これは熊ヶ谷親方が以前宮城野を名乗っていたための間違い。また山口達也アナウンサーが「白鵬と同じ熊ヶ谷部屋で指導する」と言い間違えたこともある。それだけ師弟の関係が深いといえる。
週刊現代が2007年6月4日号にて現宮城野親方(元十両・金親和行)が朝青龍ら4力士に2006年7月場所の八百長依頼をした疑惑を取り上げた。宮城野親方が八百長の準備をし、支払いは白鵬に任せているという。この件は一連の報道の4件目の民事訴訟の告訴となった。また、協会は週刊現代の刑事告訴も行っている。
2007年7月よりはじまる一連の朝青龍騒動では同情的なコメントを寄せている。8月23日には朝青龍の外出について感想を求められて「いいんじゃないですか?」と答え、朝青龍帰国に際しては「けがを治すなら、落ち着いてやるのがいい。体よりも心の痛みが強いと思う」と郷里の先輩を気遣った。
横綱になった年、本来は毎年開かれている歴代横綱親睦会が、時津風部屋力士暴行死事件のあおりで中止(2000年以来2度目)になってしまった。本人は楽しみにしていた。
2007年2月に当時大学生であった徳島市出身の女性と結婚。このとき夫人は第1子を身ごもっていた。同年5月10日に第1子(長女)が誕生、2008年9月3日には第2子(長男)が誕生している。
現在の妻と交際を始めた際、恋愛術の参考としていたのが「冬のソナタ」だった。
三段目時代の2002年7月場所で3勝4敗と負け越して以来、休場以外の皆勤負け越しがない、また皆勤して負け越したのは初番付の2001年5月場所と2002年7月場所の2場所だけである。
大関昇進前までは若の里に分が悪く、初顔合わせから6連敗をしていた、しかしそこから6連勝して現在の対戦成績は五分である。
また横綱昇進後は日馬富士に分が悪く、それまで初顔合わせから5連勝していたが横綱昇進後の成績に限ると5勝6敗(優勝決定戦は含まない)となっている(2009年1月場所終了時)。
モンゴル出身力士の中では一番酒が強い力士でもある。
2008年4月1日のプロ野球公式戦「巨人対中日」(東京ドーム)において、始球式を務めた。背番号は第69代横綱に因んで「69」だった。
また徳島ヴォルティスのオープニングセレモニーにも出席。白鵬は「嫁さんの地元だから、ヴォルティスに勝ってほしいね」と言ったが、逆転負けをしてしまった。
過去優勝決定戦に5度進出し、3勝2敗。ただその3勝はいずれも本割では負けている。逆に2敗は本割で勝っている。